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泥沼通信100号記念寄稿文〜2000年夏 何していましたか?

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 ガレージシャンソンショーの相方・山田晃士氏の”組合”会報「泥沼通信」が創刊100号を迎えるということで、頼まれましたよ、ナニか書いてくれと。


 で、そのお題が、泥沼通信ゼロ号を発行した2000年の夏、ナニをしていたかというのですが。

 いやいや、記憶が怪しい年頃になってきたのにそんなコト聞かれても……、とは言いませんでしたが、正確な年代はかなり不確かなので”ザックリその頃”のコトを思い出してみまして。


 オヤジの昔話はヤメといた方が世のため人のためな気がするのですが、まぁ折角書いたし、山田くんの許可も得て、ココでも公開させてもらおうかなと。


 てことで下記本文。


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お題:ゼロ号を発行した2000年夏 何していましたか?


2000年ねぇ。

ガレージシャンソンショーという名前が付く直前くらいかな。

そしてその頃の写真は全く見当たりません…、ゴメンなさい。


パリから帰ってきて3年くらい経った頃か。

当然仕事などほとんど無く、毎日が日曜日どころか毎日GWどころか毎日夏休み

暇に任せてジャズ屋さんのジャムセッションに足繁く通う日々。


初めてギャラを貰ったのは忘れもしない新宿ピットイン(昼の部)、お客さん3人のチャージバックを出演者9人で割った1人”210円”がその月の収入でございましたよ。


やっとオハチが回ってきた営業的ナマBGM仕事もなかなか屈辱的だったりして。


そのヒトツが目白の椿◯荘エントランスで弾くソロ演奏。

初日、演奏を始めようにも頭上のスピーカーからしっかりとした音量のBGMが流れているので、担当者に音を止めてもらうよう要請したのですが、

「あ、これ全館に流れるBGMなんでココだけ止められないんですよねー」

という驚愕の返答。

かくしてブライダルフェア中の1ヶ月間、頭上から清々しいBGMが流れる中で生演奏するという、苦行の様な仕事で雑草魂を鍛え、己の精神を叩き上げるのでありました。


かと思えば、日本橋三◯本店8F催事場での《フランスフェア》で弾くBGMソロ演奏。

イベントの周知の為、演奏は1F正面入り口のライオン像前からスタート、各フロアを流し、最終的に8F催事場で華々しく、という趣向。

1F化粧品売り場をおフランスなシャンソンやミュゼットで流し、しかしちょっとやそっとでは演奏を止めてはならないというお達しに素直に従い、エスカレーター移動中だろうと、普通の買い物客にニラまれようと、フランスフェアをやっている事を認識していない家具売り場の店員のイブカシげな視線を浴びようと、とにかく、何が何でも、引きつった笑顔で各フロアを流しまくるワケです。

そうこうしているウチに、奥様方で賑わう催事場へ到着。

ようやくアコーディオンが最も似合う絵に描いたような状況で、無理して覚えたおフランスな演奏を聴いていただけるかと思いきや。

催事場の奥様方はといえば、沢山並んだ輸入もののワインやらチーズやらを一心不乱に物色中なワケで、取ってつけた様なベレー帽をカブった小僧が弾くアコーディオンに耳を傾けるなどというコトは1ミリもなく、その音は、買い物に邁進するマダムたちの雑踏の中に虚しく吸い込まれるのでありました。


嗚呼、こんなコトをする為にフランスまで行ってアコーディオンを修行してきたワケではないのに、帰国してからまさかこんな更なる、いや別の意味での修行が待っていようとは…。

 

果たして、蛇腹の道をココロザシ高く挑んだ青年に現実という名のイバラの道が待ち受けていたワケでありまして、悔しさ余ってステレオタイプなアコーディオンのイメージなどクソ喰らえと思っていた矢先。

図らずも出会ってしまったシャンソン好きで鋼鉄の喉を持つロックシンガーと共に、シャンソンを果てしなく曲解したユニットでそのやり切れない思いを20年以上吐き出し続けることになるとは、2000年夏のヒネクレた若き蛇腹弾きには知る由もなかったワケでございます。


 
 
 

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